猫の らんこ  マウスで遊んであげてね^^

2008年05月09日

本田さんからの手紙

広津先生の色紙.jpg

広津氏の「ゼロだよ」発言についての本田さんから届いた手紙を
ご本人の許可を取って、転載させて頂きます。

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松川裁判闘争は、思想信条を超え、各界各層の皆さんが、
ヒューマニズムの一点で結束し、立ち上がって勝ち取った、
歴史に未曾有の輝かしい勝利でした。
広津先生の最晩年、私をつかまえてこんな議論を吹っかけたこの時期は、
この松川裁判闘争の経験や教訓の総括について語られていた時期でした。
この次の歴史に引きつぐ総括の中で、先生には私たちの議論をこえて期待し、
或いは願っていた何かがあったのではないか、いま私はそんなことを考えています。

そもそもこの話はいつも訪問し親しくしていた先生と私の間の話です。
松川裁判のたたかいの評価の明るさや暗さに関わる話でないことを
お断りしなくてはなりません。

一寸脇道になりますが、こんなことを紹介しましょう。
広津先生は松川対策協議会会長をされていて、
困窮している裁判闘争資金支援のために一策を案じ、
多くの文化人・知識人・作家・画家・彫刻家・演劇人に色紙揮毫を訴え、
寄せられた色紙で、裁判闘争支援色紙展が開かれたことがありました。
このとき多くの支援が集まり、その売り上げが裁判資金に当てられました。

このとき広津先生は呼びかけ人として、
およそ色紙揮毫など無縁のような人でしたが、二枚の色紙を書いて出展しました。
その一枚にはこう書かれています。
「何よりもまづ正しい道理の通る国にしよう この我等の国を」
そしてもう一枚には
「これだけは声を大きくして言いたい。少なくともニヒルが人生の究極である筈はないと」
と書いています。

広津先生のニヒルとのたたかいは自分でも語り、読者の多くが知っていました。
私がそれについて持つ印象は、強く血の滲むような闘いだったというものです。

先生が私をつかまえて「君ゼロだよ」を言われたとき、
すぐ私の胸に来たものは、その「血の滲む」ようなニヒルの痛さでした。
それで慌てて私は「いえ、先生、そんなことはありません」と言って
先生の話をそこで遮ってしまったのです。
今にして思うと「君ゼロだよ」と吹きかけてきた言葉は、
次に何かを言おうとしていた導入部、枕詞だったのだと思われます。

何と言い、何を語ろうとしていたのか、遮ってしまったことで、
それが聞けなくなってしまったことが、今は残念で悔やまれています。
言おうとしたのは文学論であったかもしれないし、
「ゼロだよ」にはじまるいつものたのしい世相批判であったかも知れない。
今はそんなことを思い出しては、とめどなく考えています。

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「何よりもまづ正しい道理の通る国にしよう この我等の国を」という言葉を
現代に生きる私たちは、あらためてかみしめるべきなのかも知れません。
posted by 橘かがり at 02:05| 松川事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月29日

松川事件元被告・本田昇さん

今日は本田昇さんについて触れようと思います。
本田昇さんは、松川事件の元被告。拙著の中で、Hさんとして登場いただいた方です。
本田さんは1926年生まれ。福島市立商業実務青年学校卒業し、国鉄郡山駅に勤務。
海軍に召集され、1945年8月に国鉄に復職。
1948年6月から、国労福島支部執行委員となり、1949年7月4日に解雇されます。
松川事件が起きたのが8月17日です。

逮捕されたのは9月22日の朝。
目が覚めるとおまわりさんが立っていて「ちょっと署まで来てくれ」と言われたそうです。
本田さんは「すぐ帰ってくるから」と妹に言い残して連行されました。
そしてそのまま約10年帰ってくることができなかったのです。
逮捕されたとき23歳だった本田さんは、保釈されたときに33歳になっていました。
1949年9月22日に逮捕され、1959年7月1日保釈されるまで、
拘束日数はのべ3565日にもなります。気の遠くなるような歳月です。

23歳から33歳までをいわれのない罪で拘束され、二度死刑を宣告された本田さん。
本田さんにはじめてお目にかかるとき、私は当然ながらとても緊張しました。
祖父の判決のことを思い、そして自分の人生の23歳から33歳までを
思い返してみました。就職、恋愛、結婚、そして母親に。
それは人生の中でもっとも環境の変わった、あっという間の、めまぐるしい10年でした。
多くの出会いに恵まれた、充実した毎日でした。
私の場合、喜びが多かったからこそ、あっという間に感じたのでしょう。
しかし本田さんにとっての10年は、どれほど長く苛酷なものだったでしょうか。
想像することすらできません。
私の置かれていた環境と、本田さんの過ごした孤独と絶望の10年を、
比べてみずには居られなかったです。
しかし本田さんは、自身を冤罪に追い込んだタカ派裁判官の孫娘の私を
快くそして温かく迎えてくれました。
本田さんの懐の深さに、感激せずにはいられなかったです。

本田さんは今年82歳になります。大変お元気で記憶力抜群、頭脳明晰な方です。
何より非常にタフな精神力と、温かい心の持ち主です。
原稿を書きはじめて、一番嬉しかったことの一つは、
心身共にお健やかな本田さんとお目にかかれて、貴重なお話をうかがえたことです。

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松川裁判を中心になって支えたのは言うまでもなく広津和郎先生です。
ところが釈放された本田さんは、最晩年の広津先生の口から、
虚無的な言葉を聞いたといいます。そのときのことが、
松原新一氏の『怠惰の逆説』に詳しく書かれています。
以下、引用させて頂きます。

本田氏は、晩年の広津和郎氏の口から、「結局、ゼロだよ。」という虚無的な言葉の洩れたのを聞いている。広津和郎が仕事場として借りていた、東京の護国寺裏の直居アパートの二階の部屋に広津和郎を訪ねたときのことである。顔を合わせるなりいきなり広津和郎は、「君、ゼロだよ。」と言った。本田氏にはとっさになんのことか分からず、また、なぜ突然広津和郎がそんなことを言い出したのかも分からなかった、という。だが、その言葉の内容や響きから伝わる、広津和郎の心の世界を領しているある寂しい感じを否定することはできなかった。
本田氏は、
「先生、ゼロなどということはありませんよ。先生があれだけ粘り強く真剣に松川裁判の批判を展開してくださったおかげで、私たち被告全員の無実の罪がはらされ、生命も救われました。それだけではなく、裁判の公正さはいかなる政治体制のもとにあっても守られねばならず、また守られ得るものだということを実証されたのは、日本の国民にこの国の社会と歴史とへの大きな希望を与えられたことになります。先生のお仕事は、ゼロなどということはありません」といった。
だが広津氏の態度は変わらなかった。
「いや、僕にとっては、ゼロだよ。」という同じ言葉を寂しそうに呟くばかりであった。
『怠惰の逆説』松原新一著(講談社)「広津和郎晩年の呟き」


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私は本田さんに直接お目にかかり、そして松原先生のご著書を拝読し、
広津氏のこの呟きを、終盤の場面に使わせていただきました。
しかし私にも広津氏の真意は分からないままでした。

本が出来上がった後に、本田さんからお手紙をもらい、
大切なことを書き忘れていたような思いがして、ハッとしました。
本田さんから頂いたお手紙の内容は、次回に書かせて頂きます。
posted by 橘かがり at 19:07| 松川事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

「松本清張と松川事件」展のお知らせ

福島大学の伊部先生から、「松本清張と松川事件」展のお知らせが届きました。
松本清張は『日本の黒い霧』の中の一遍で、松川事件の真相を見事に推理してみせています。
裁判批判に徹し、被告の無罪を証明することに筆を尽した広津和郎氏と異なり、
松本清張は、事件の真犯人を推理しています。
二人の役割は違いますが、被告を救援しようという、献身的な姿勢は共通しています。
何よりも、地味で粘り強い追求には、本当に圧倒される思いです。
伊部先生が新聞に「松本清張と松川事件」展の紹介記事を書かれているので、
許可を得て、一部を抜粋致します。

そして伊部先生もまた今日まで、広津和郎氏や松本清張氏に優るとも劣らぬ、
粘り強い追求を続けています。
私は伊部先生の真摯で謙虚なお姿にいつも胸打たれ、
背中を押されるようにして原稿を書いてきました。
伊部先生との出会いは、私の人生の宝物のような出来事でした。
これからも伊部先生を遠く仰ぎ見て、書き続けていきたいと願っています。(以下引用)

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裁判の初期段階から、事件と裁判に疑問を抱き、無実の被告への救援に立ち上がったのは、ごく限られた弁護団や支援運動家、そして様々な分野の文化人たちであった。
とりわけ作家・広津和郎は、あくまでも裁判資料の吟味をもとにして第二審判決批判を四年半(54回)にわたって『中央公論』に連載するなどして、広範な国民世論を“松川無罪”に転換させる中心的役割を果たした。
こうして総評、国労などの主要な労働組合が当初の不介入方針から被告の救援、公正裁判要請の側に転換し、全国に「松川を守る会」と呼ばれる草の根組織が次々と誕生した。この松川運動(大衆的裁判闘争)の発展が、警察・検察による恐るべき権力犯罪の事実をあばき、松川全員無罪を最終的に実現させる原動力となった。松川運動が世界の社会運動史上に誇るべき金字塔といわれるゆえんである。
そして広津による松川裁判論(無実の論証)の成功が、松本清張による松川事件論(真犯人の追及)を可能にした。清張が1960年の『文藝春秋』に“日本の黒い霧”を連載(後に単行本化)し、その中で「推理・松川事件」を取り上げたことはよく知られている。しかし「清張と松川」の全体像については、今日までほとんど検証されずにきた。

今回の企画展は、この課題に真正面から取り組んだという意味で大いに意義がある。この企画展の成功に向けて、記念館の藤井康栄館長、担当の小野芳美学芸員が、遠路はるばる福島大学「松川資料室」にまで二度、三度と足を運ぶなどして、資料の探索と研究をすすめ、企画展の構想を具体化した。
企画展は、松川事件・松川裁判・松川運動の中での広津と清張の足跡を対比させながら、二人の大作家が果たした独自の役割(裁判論と事件論の探求)と共通性(被告救援への献身)を確認している。
ふだんは眼にふれる機会のない生原稿も多く展示されており、これまた本企画展の独自性であり、苦心のあとがうかがえる。
政治の右傾化、裁判の反動化が指摘される今日、松川運動を学び生かす意義はますます大きくなっている。多くの人たちがこの企画展を参観されるよう願ってやまない。
(いべ・まさゆき 福島大学名誉教授・「松川資料室」研究員)

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「松本清張と松川事件」展 北九州市立松本清張記念館 093(582)2761
posted by 橘かがり at 03:25 | TrackBack(0) | 松川事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする